アカクテハヤイフェラーリF1

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F1グランプリの歴史

■1982年

ゾルダーの悲劇 ジル・ビルニューブ事故死。


MACHINE :
126C2(1.5リッターV6ターボ)
マシンデザイン :
ハーベイ・ポストレスウエイト
DRIVER :
ジル・ビルニューブ(No.27)
ディディエ・ピローニ(No.28)
パトリック・タンベイ
マリオ・アンドレッティ


フェラーリに加入したハーベイ・ポストレスウェイトが、前年の126CKを改良して126C2を完成させた。フェラーリ初の純粋なウイングカーにもなった。非常に美しいスタイリングのマシンでターボ時代を代表するマシンと言われる。

第3戦アメリカ西GPロングビーチでは2段リアウィング仕様のマシンが登場。リアウイングのサイズの規定が変わり大きさを制限されたが、フェラーリは枚数制限がないからと、規定サイズのウイングを2枚つなげました。結局レギュレーション違反で失格。

また、このシーズンのF1マシンはウイングカーが主流だったので、高速サーキットの場合はフロントウィングが無いものもありました。

第4戦サンマリノGP、ジル・ビルニューブ、ディディエ・ピローニのワン・ツーで終盤を迎えていた。チームはふたりにポジションキープの指示を出した。1位のジルは当然ペースを下げる。ところが、ピローニがジルを抜いてしまった。ジルはピローニが観衆を楽しませるためにしていると思ったらしい。再度抜き返したが、ピローニは本気だったらしい。結局ピローニがトップでゴール。チームはその後、ピローニの行為におとがめなし。ジルが孤立してしまった。

そして、第5戦ベルギーGP。有名なゾルダーの悲劇である。予選の最終セッションでピローニに負けていたジルは猛烈なタイムアタック。ヨッヘン・マスのマシンと接触。126C2は宙を舞い粉々になる。シートにくくりつけられたまま投げ出され身動きひとつしないジル。この映像は有名なので見たことがある人もいるでしょう。
■ジル・ビルニューブ事故死のクラッシュシーンの動画はブログ記事からどうぞ。

しかし、この年はこれだけがフェラーリの大事件ではないのです。もうひとつ、あまり記憶に残らない記録があったのです。その後、まさしくチームNo.1になったピローニはオランダGPでも優勝。この年のチャンピオンも夢ではありませんでした。しかし、ドイツGPの予選アタックでポールポジションは確定していたのに雨の中、前方を走るアラン・プロスト(ルノー)のマシンに追突。両足に大怪我。シリーズチャンピオンを棒に振りF1から引退。皮肉なことに、フェラーリはコンストラクターズ・チャンピオンだけは獲得しました。しかし、ビルニューブもピローニも失ったというのは大きな痛手でした。

この年、デビュー2年目のドライバーにアラン・プロスト(ルノー)がいました。プロストが他の人を信用しなくなった原因が82年のフランスGPにあったことはあまり知られていません。ルノーはルネ・アルヌーがNo.1で、No.2に新人のプロストで参戦していました。ところが、第11戦フランスGP開始時点で、アルヌーは4ポイントしか稼いでいません。プロストは19ポイント、優勝は2回。チャンピオンの可能性はプロストにあったのです(昔のF1は年間4勝ぐらいでチャンピオンになれるほど、チーム間の力が拮抗していたのです)。チームはアルヌーに対してプロストに勝ちを譲るようにチームオーダーを出しました。アルヌーもOKしていました。アルヌーがポールをとってリードしても、プロストは安心していました。ところが、アルヌーはピットのサインを無視して、そのままゴールして優勝してしまった。しかも、メディアがプロストに同情しなかった。これで、プロストのプライドが傷つき、人を信用しなくなったのです。プロストはチームに「アルヌーを取るか、自分を取るか」せまり、アルヌーがフェラーリに移籍しました。しかし、翌1983年、ルノーのマシンは絶不調。チームは責任をマシンではなく、プロストに押し付け解雇した。プロストの性格が悪くなったのは82年と83年のルノー時代だったのです。

75年にニュルブルクリンクの大事故で瀕死の重傷を負いながら生還したが、79年に引退していたニキ・ラウダがマクラーレンから突如カムバック。第3戦に優勝して周囲を驚かす。84年にはチャンピオンを獲得してしまう。まったく驚いた。

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